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 中世城郭の歩き方 A

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其ノ二 中世石岡の歴史と城郭―大掾氏 


2009.6月










































今回は石岡及び周辺の中世城郭に関連する歴史を独断的に紹介しよう。  石岡市の中世城郭は常陸大掾氏の繁栄と滅亡を抜きには語れない。大掾氏は大掾職を世襲し高い格式の家柄として中世石岡に君臨し、戦国時代に滅亡する。従って石岡には大掾氏の城郭が多く残り、周辺には対立していた小田氏、佐竹氏の城郭も多い。
 
大掾職を世襲する大掾氏と城郭   大掾というのは国府の官名(現地責任者)で、世襲した平氏は大掾氏と称された。平安時代、桓武天皇の玄孫である平国香が都から常陸の国の大掾となって着任し、そのまま現地に土着し、その子貞盛(伊勢平氏、平家の祖)が平将門を討ち取る(935年)。この功で貞盛は常陸全土を掌握し、甥の維幹が常陸大掾となる。はじめに館を構えたのがつくば市の水守城で、後に多気城に移り、大掾職を世襲し多気大掾と呼ばれた。この一族からは吉田氏ほか多くの氏が分家し常陸の国の巨大な勢力となる。

大掾氏と対立する小田氏鎌倉期
 鎌倉時代初期(1200年頃)、多気大掾氏は小田城の小田氏(八田氏)の陰謀で失脚し、つくば地方を追われるが、水戸城を拠点にした分家の吉田(馬場)資幹は、大掾職を死守し、石岡の地名の由来となる石岡城(石岡市田島)を築き居城とした。大掾氏は高い格式の家柄として常陸国内で一目を置かれた。しかし、小田氏が台頭し両者滅亡まで抗争が続くことになる。

没落への序章南北朝と足利時代
 鎌倉幕府が滅亡(1333年)し、南北朝の動乱が起こると常陸も混乱に巻き込まれる。大掾氏は当初南朝方に与するが、後に南朝方の小田氏との確執から北朝方に鞍替えする。この頃北朝優位に推移し、大掾詮国は国衙の地に府中城を築き石岡での拠点を強固にした(1350年頃)。 足利尊氏の関東支配体制が確立する(1349)と、大掾氏は尊氏に従い、戦功を挙げ勢力を拡大した。しかし、1426年には、水戸で勢力を拡大してきた江戸氏に水戸城を奪われ、1429年には、大掾満幹父子が鎌倉で殺され勢力減退が顕著になる。

大掾氏の滅亡戦国時代の城郭
 本格的な戦国時代(1467〜)に突入すると、大掾氏は江戸氏と抗争を繰り広げ、一方南の小田氏との間でも戦いが起こる。この頃、関東は上杉と北条の抗争の場となっており、佐竹氏は上杉方として常陸で勢力を拡大させ、大掾氏も上杉氏側に立って行動し、1558年には大掾常春が三村城を築き戦乱に備えた。佐竹氏は柿岡城、片野城、真壁城を拠点に北条氏側の小田氏と戦い(1569年 手這坂の合戦)、勝利しこの地の支配権を獲た。 1588年、佐竹氏が江戸氏を支援するようになると大掾氏は孤立し、竹原城(小美玉市)などでの戦いにも敗れ、領土のほとんどを奪われる。そして小田原の役(1590)での対応が常陸の勢力地図に決定的な影響を与えた。常陸は佐竹氏の領地と認められ、佐竹氏はこれを盾に、参陣しなかった江戸氏、大掾氏を攻撃し、両氏を滅ぼしてしまう。府中城を落とされた大掾清幹は自刃し、平氏の名門大掾氏は滅亡する。次いで、大掾氏の流れを組む行方氏などの八家も滅ぼされ、大掾一族は常陸の歴史の表舞台から消える。  (長谷川 功)



まちかど情報センター情報紙「うきわく」51号より引用