ルネッ散歩STORY


 中世城郭の歩き方 B 「府中城めぐり」

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 其ノ三 「府中城めぐり」〜石岡ルネっ散歩スタート!〜

2009.7月12日





































)府中城のような中世城郭は八百年から四百年前頃に築城され、城郭は市街地に近いところでは住宅地や畑地になっており、山地ではただの山のように見えます。基本的な知識を持って探訪すると、畑地や住宅地やただの山が史跡の山となります

(2)中世城郭は、三方が湿地や崖で囲まれたような自然地形を巧みに利用し、山頂部を平にして曲輪(くるわ、丸)を築き、周辺を土塁、堀、崖などで囲って敵に備えた郭であるといえます。中世の「城」は、まさに漢字の成り立ちの如く、土から成るもので、近世城郭に特有な天守閣や石垣は存在せず、いわば砦で、素朴な城です

(3)府中城も恋瀬川と山王川に囲まれた洪積台地を巧みに利用し築城されています。図に府現在の石岡市の中心市街地をほぼ覆っている事がわかり都城形態をもつ名城で、陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並ぶ日本三名古城といわれており、国府そのものが城であった。今回はその外堀を周回し府中城の大きさを実感してみます。堀跡は小道や畑地として残り、場所によっては周りより若干低くなっている様子も見れます。鬼門には神社が祀られ、寺のほとんどは城郭内に存在しています。石小敷地内の土塁跡が府中城の堅固さ示し、周りを巡ってみると堀跡や崖などを散見することができ、往時を偲ぶことが出来ます。

(4)中世城郭としての府中城は大掾氏と運命をともにしたと言えます。平安時代に平将門を討伐し、常陸国の大掾職(現地最高責任者)を世襲するようになった常陸平氏は大掾氏と呼ばれ、水戸城を本城とし石岡城を居城とし中世常陸に君臨し、一三五〇年ころ、国衙の地に府中城を築いた。室町時代には、大掾氏は戦功を挙げ勢力を拡大したが、後期には水戸城を没収され、府中城一帯を保持するだけの小勢力となり、衰退していく。そして戦国時代に三村城を築き備えるが、豊臣政権下の一大名である佐竹氏に滅ぼされ、大掾氏の歴史は終焉を迎え、中世城郭としての府中城も炎上し滅びました。

(5)府中城には逸話が残されており、興味がかきたてられます。一五九〇年に若き最後の城主(清幹、一八歳)が炎上する城を見ながら「嗚呼残念」と嘆いた宮部の坂はどこか。敵方の園部から嫁いだ若い姫が堀に身を投げて自害したと伝わる池も城内にありますが、どこか。また城には七つの抜け穴があると言われており、石小付近、青木町、香丸町、泉町、金刀比羅神社付近、守木町、貝地などで坑道や穴が見つかったり陥没したりした。清幹も脱出に使用したのかもしれません。これらを想像しながら巡るのも一興。(長谷川功)


ルネっ散歩のコース


情報センターをスタートして、隅宮福徳稲荷、従一位青木稲荷、若宮八幡宮、照光寺、府中石井、箱の内出丸、宮部出丸、宮部不動院、府中城本丸、二の丸、三の丸、堀跡、神水滝、総社宮、平福寺など(写真は最後に寄り道した酒屋にて試飲中)ルネっ散歩の様子はHPの動画でもみることができます。




まちかど情報センター情報紙「うきわく」52号より引用